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秩父困民党の幹部たち

 

田代栄助1834・天保5年〜1885・明治18年)大宮郷出身 事件時51歳 困民党総理

  ・“博徒”“侠客”と自認しながら、地域では“代言人”としても活躍し、弱者に人望が厚かった。

 ・明治17年8月以降、困民党幹部から参加要請をたびたび受け、9月6日初めて幹部会議に参加。

 ・関東一斉蜂起論を唱えるが聞き入れられず。蜂起後も積極攻撃に慎重な態度をとり続ける。

田代栄助訊問調書より(抜粋)

自分ハ生来強キヲ挫キ弱キヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍(ふせき=自分の戸籍にいれる事)為致、其他人ノ困難ニ際シ中間ニ立チ仲裁等ヲ為スコト実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人…

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加藤織平1848・弘化6・嘉永元年〜1885・明治18年)石間村上農 事件時36歳 困民党副総理

・トリオらから困民党活動への助力を乞われ、自ら貸付けていた150円の証書を破ってそれに応える。

・貧民の面倒をよく見る事から“質屋の良助”の異名をとる。

・蜂起では大宮郷占領の陣頭指揮を執るが、本陣解体後は東京に逃亡し神田で捕縛。死刑となる。

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井上傳蔵1854・安政元年〜1917・大正7年) 下吉田村 「丸井商店」の6代目 戸長役場「筆生」

 ・明治12年、阿熊上日野沢下吉田久長連合村議会の副議長に選出されるほどの“名望家”

20歳の頃から商売の為に上京するようになり、民権思想に傾倒していったのではないか

→自由党本部にも出入りし、大井憲太郎らとも接触したと考えられている

17年5月自由党入党、直接的に困窮農民と関わるようになり、次第に困民党の中核に…。

『自由党史』より

村上泰治の親友に井上傳蔵という者あり、為人沈毅剛膽しかも容貌婦人の如く、挙止極めて嫺雅なり。村上とともに平正宮部襄に師事し、自由民権の説を聴いて頗る啓発する所あり。互いに兄弟の盟を為し死生を共にせん事を誓

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高岸善吉 (中程度の養蚕農家 通称「紺屋の善吉」。事件時には上 吉田村小隊長。)

・明治17年3月自由党入党。自由党春期党大会(東京)に埼玉県代表の一人として参加。

・郡内にあっては、困窮する養蚕農家を救う為に郡役所や高利貸と直談判する活動家。

・事件後は加藤織平と行動を共にして東京に逃亡。神田で捕縛され、翌年死刑に。 

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落合寅市 (中程度の養蚕農家 事件時には乙大隊副隊長)

・高岸らとともに高利貸・役所に対する請願運動を進め、次第に困民党組織づくりに奔走。

・武装蜂起に至っては、11月4日粥新田峠の戦闘で敗北。各地を転々とし四国に逃亡。

・翌明治18年には大阪において大井憲太郎とともに「大阪事件」に参加。下関で逮捕。

・出獄後「秩父暴動」とされたこの戦いを顕彰する活動を始め、織平墓をカンパで建立。

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坂本宗作 (上 吉田村 出身29歳。事件では伝令使。通称「かじやの宗作」)

・事件の時は「悟山道宗信士」の戒名を書いた鉢巻で参加。菊池貫平とともに上信へ転戦。

 ・東馬流の戦闘ののち、秩父郡日尾村山中の炭焼小屋で捕縛され、裁判ののち死刑宣告。

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新井周三郎 1862(文久2)年、男衾郡西ノ入村(現 寄居町)出身 甲大隊長

・明治17年石間村に教員の欠員があると聞いて織平宅を訪れ、困民党を知る。

・彼自身に借金があったわけではないが、民衆の困窮を傍観できずに困民党に参加したという。

・蜂起4日目、大淵村の長楽寺で捕虜の青木巡査に斬られ重傷。これをきっかけに困民軍は大混乱に。

・事件後、故郷西ノ入に帰るが逮捕され、裁判において死刑を宣告される。

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飯塚森蔵  1854(安政元)年、 吉田村 出身 乙大隊長

・上州南甘楽郡平 原村 で勤めていた教員をやめて帰郷。困民党の組織化が始まる段階から活動に参加。

・田代栄助を困民党の活動に直接勧誘したのが彼で、10月末には信州にまで出向いて組織化を図る。

11月4日本陣解体ののちの足取りは不明。(愛媛や大分で戸籍が発見されている)

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小柏常次郎  上州上日野村の養蚕農民・板割職人 明治15年自由党入党 小荷駄役

・群馬事件に際して上州の自由党は蜂起を計画し、新井多六郎とともに秩父にやってきて組織化を

すすめるが、事件そのものが準備不十分のまま挫折。そのまま彼は秩父に居座る。

・秩父困民党には、落合寅市ら困民党トリオから助力を求められ、彼らと行動を共にする。

・秩父事件直前、上州勢の準備をめぐって田代栄助と対立。蜂起では「小荷駄役」に甘んじる。

11月4日本陣解体ののちの行動は不明だが、13日に自首して逮捕され、重懲役9年となる。

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菊池貫平  1847(弘化4)年、信州 南佐久郡北相木村  自由党員 参謀長

・村内屈指の養蚕家であり、代言人でもあった。

・蜂起直前の1027日に来秩。蜂起に際して「軍律5カ条」を起草。

・「現在の政府を転覆して国会を開く革命の乱」と秩父事件を捉えているのが特徴。

・本陣解体後、自ら総理となって東馬流まで転戦。行方知れずのまま欠席裁判で死刑。

・明治19年に甲府で逮捕。憲法恩赦で死刑を免れ北海道で無期徒刑。明治38年出獄し大正3年没。

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井出為吉  1859(安政6)年  信州 南佐久郡北相木村  自由党員 軍用金集方

・村内屈指の豪農で明治12年に21歳にして村会議員、明治1617年にかけて戸長を勤めた。

・『仏国革命史』『広議世論』『民権自由演説規範』『欧米政党沿革史』などの蔵書が発見されており、
  相当のインテリで積極的な自由民権家であった事がわかる。

・事件において、商人から軍用金を借りした際、証文に「革命本部」と書いた事は有名。

 

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